「征ちゃん」
数十秒の沈黙の後に、赤司は己を呼んだ声の主を振り返った。
「なんだ」
「……って呼ばれてるんスね」
彼を普段は口にしない愛称で呼びつけた黄瀬は、反応を伺う様子で赤司の姿をじっと見ている。
「ああ」
彼の言葉に、赤司は小さく頷いた。
征ちゃん、と赤司を呼ぶのはチームメイトの一人だ。上級生であり、レギュラーの一員である彼には、プレイに関すること以外は好きなようにさせている。入学したばかりの一年生である自分が洛山の主将として立ち、チームの実権を握ってるのだ。それ以外のことで他の部員達を厳しく型に嵌めようとするほど、赤司も野暮ではない。
決勝戦の前に、黄瀬の属する海常の面々は、洛山の部員が集う横をすり抜けていった。黄瀬はその時にでも、彼が赤司を「征ちゃん」と呼ばわる声を聞きつけたのだろう。
「ずるい」
赤司がそれを認めるのに、黄瀬はさほど真剣でもないが、それでもわかりやすく恨めしそうな口調で短い不満を口にする。
ウインターカップの後は、都内に実家のある赤司はそのまま東京に残った。他にも近畿圏以外の部員は皆、都内で解散し、それぞれ実家への帰宅の途についている。
自宅に戻って一晩過ごした翌日には、赤司はこうして午前中から黄瀬の家にやって来た。それは黄瀬から、明日は家人がいないからと誘いを受けたためでもあり、彼が中学時代から付き合う赤司の恋人でもあるからだ。
「なんでそんな風に勝手に呼ばれてんスか。……オレなんて、あんたに滅多に会えないのに」
黄瀬が口にするのは、どうにも感情に寄った不満ではあるが、しかし二人の関係を考えれば、彼のそんな物言いにも頷けた。この少々わざとらしい拗ね方は、むしろ可愛らしいとすら思える。
「だったら、おまえも呼べばいいだろう、涼太」
好かれているという優越感。
黄瀬は他者のそんな感情をくすぐるのが上手い。
「アイツと同じ呼び方なんてなんかやだ」
「別に僕をそう呼ぶのは、アイツ一人じゃないぞ。そうだな……従姉妹とかにもそう呼ばれる」
黄瀬の反論に、赤司は己の周囲を思い起こしつつ答えた。
征ちゃん、という呼び名は叔母や従姉妹にならば呼ばれることもあるので、さほど抵抗はない。もっとも男にそう呼びつけられるのは初めてであったが、そこは実渕のキャラクターに寄るものだろうと流しておいた。
「んー……」
「別に何でも好きに呼べばいい。赤司でも、征十郎でも」
黄瀬が悩む表情を浮かべるのに、赤司は苦笑混じりの声を彼に渡す。そもそも黄瀬が「赤司っち」などと呼び始めたのも他にはないことで、彼がその愛称を使い始めた当時は、部内の者達はあからさまに顔を引きつらせたり、遠巻きに赤司の顔色を伺ったりと様々な反応を示していた。
しかし黄瀬は、それは己が認めた相手のみに使う愛称であり、つまりは赤司も自分も特別なのだということをその振る舞いと実力で周囲に自然に認めさせたが。
一見人当たりがよいように見せかけて、実際に誰とでも上手くつきあえはするが、しかし辛辣でもあり、ひどく傲慢な一面も持ちあわせる。黄瀬のそんなクセのある部分は、赤司の気に入りでもあった。
「じゃあ、征十郎」
まずはじめに黄瀬は、彼の名をシンプルに口にした。
「……征十郎さん、征十郎くん、征十郎ちゃん、赤司くん、赤司さん、赤司…」
続けて、その語尾に幾つかの変化を付けて呼び変えた後に、黄瀬はじっと赤司の顔を見つめた。
「征十郎」
もう一度、その名を口にした黄瀬の眼差しは、微かに潤んでいる。
名を呼ぶ内に何か、感極まってきたのだろう。
「ああ」
誘うようなその声に応えて、赤司は黄瀬の頬にそっと手を伸ばした。
「ん…」
触れると黄瀬は軽く首を傾け、赤司の掌に自ら頬を擦り寄せて、目を細める。
彼が微かに目を伏せると、長い睫毛の影が目許に落ちた。
(たまにこうなるな……)
黄瀬のその様を見やって、赤司は密やかな愉悦に胸を躍らせた。
ふとした時に、彼は驚くほどの色気を纏うことがある。
そんな姿には流石はモデルだと感心もするし、やはり黄瀬はその姿の造形が美しいのだと納得もさせられる。そして、自然な媚態は自分相手にだからこそ見せるのだろうと思うと優越感がこみ上げるし、逆に他の誰かにもそんな顔を見せるのかもしれないと考えれば、微かな嫉妬と独占欲が胸に渦巻いた。
だからこそ一層、彼が欲しくもなるし、可愛がりたくもなってくる。
「二人きりの時なら、そう呼んでもいいぞ」
「?」
「征十郎って」
「どうして、二人きり?」
「どこでもそんな顔されたら困る。おまえは特に……そうだな、テツヤの前だと気を抜くだろう」
「あー……黒子っち。確かに黒子っちの前で、征十郎なんて呼んだら、オレと赤司っちが付き合ってるって即バレするかも」
赤司の指摘に、黄瀬は納得したと言いたげに頷いた。もっとも彼の理解は、赤司が言い含めようとしたその内容とは少々ずれているが。
「別に、知られるなら知られるで、僕は構わない。テツヤは面白がって噂を広めるような奴じゃないしな。それに……」
見当違いの言葉に、まったく、と小さく息を吐きながら、赤司は頬に触れた手の親指で、黄瀬の唇を押さえた。
「こんな顔したらって言ったろう」
「……こんな顔って、どんな顔?」
指の重みに唇を薄く開いた黄瀬は、一瞬きょとんとした顔をして、それからどこか意味深な笑みを浮かべる。
「おまえは知らなくていいよ、涼太」
彼の笑みに煽られる。
その感覚が快い。
「僕だけが知ってればいい」
己の腹の底で揺れる感情に微かに笑いながら、赤司は目の前の恋人に唇を重ね合わせた。
「じゃあ、赤司っち、してあげるっス」
「……戻ったな」
「何が」
「呼び名」
「ああ。だって、このシチュで征十郎って呼ぶのって、なんか風俗っぽいような気がして」
赤司を自分のベッドに腰掛けさせて、その前に腰を落とした黄瀬は、彼の声に答えながら赤司のベルトに手をかけた。
ベルトの金具を外し、ズボンの前立てを開けるその手付きはすっかりと慣れたものである。
「でも、そもそも即尺自体がフーゾク?」
「というか、嫌じゃないのか?」
わざとらしく首を傾げる彼に、赤司は半ば呆れながら尋ねかけた。
セックスの時には、黄瀬は自分だけがただされるのは嫌なようで、口や手を使って必ず自分からも赤司に何かさせてほしいと請うてくる。特に毎回、口での愛撫をしたいと自ら寄ってくるのだが、事前に身を清めておらずとも、屈託なく唇や舌を這わせてくるその姿に赤司の側は微かな躊躇を覚えていたのだ。もっともそれも、わざわざ止めて黄瀬の気を殺ぐほどのことでもないので、いつも彼の好きなようにさせてやっていたが。
「ん……」
すぐには答えずに、黄瀬はまず赤司の身体に顔を近づけて、下着の上から彼自身にキスをした。
「赤司っちの匂いがする」
そして、わざとらしくその体臭を嗅いでから、彼は赤司の顔を見上げて、目を細める。
ゾクッとするような、誘う笑みが彼の唇に浮かんでいる。
普段は明るく、親しい相手には大型犬のような人懐こい印象を与えるタイプだが、こうして二人きりになると黄瀬は不意に別の顔を見せてくる。
「こういうの、嫌いじゃないスよ。……っていうか、むしろ、スキ。オレが気持ちよくしてあげる、赤司っち」
しかし醸し出されたその色気も、黄瀬が彼独特の呼び名を口にすると、途端に掻き消えた。「赤司っち」などという呼び方は、こんな場面ではあまりムードは出ない。
「涼太……おまえは」
途端に肩の力が抜けて、赤司は苦笑しつつその名を呼んだ。
むしろ決まりきらないその感じが、黄瀬らしくもあって、やけに可愛らしく思えてくる。
「……征十郎って呼んだら、今すぐやったのにな」
すぐさまその身を組み敷いて、激しく貪って。
あのまま煽られれば、そんな欲望を抱いてもおかしくはなかった。実際、途中まではそういう気にもなりかけたのだが。
「え? 何ソレ。やる気なくしたって事?」
「違う。これから、時間をかけてじっくり可愛がってやるって事だよ」
的外れの言葉に赤司が笑いを噛み殺しながら答えると、黄瀬は小さく首を傾げる。
「ふーん? ま、いいか。じゃあまず、オレが赤司っちを可愛がってあげるから」
その後は、オレを可愛がって貰うってことで。
そんな事を言いながら笑う彼の姿が妙に可笑しくて、赤司は黄瀬の頭をくつくつと笑いながら撫で回した。
(2012.8.3 pixiv初出)